アラランランド

中年の危機からウェルビーイングのかたちを探していく

好きという気持ちが重要な決定要素

物事を決定するときは「好き」という気持ちが重要

 

「好き」という気持ちは大切にしたい。

なにかを買うときや大好きな人のイベントに参加する。大好きなペットや、大好きなお酒の銘柄。どんな仕事をするか。

趣味趣向は人それぞれであるけれども、「好き」という心の中の感情は本人の気持ちを高ぶらせてくれるだけではなく他の人にも影響を与える。対人関係において特に初対面で見ず知らずの人同士はお互いにその人が「何が好きか」「何に興味を持っているか」ということを何気ない会話からリサーチしている。意識してリサーチしていなくとも自然としているものである。共通の趣味はなくそこから関係を深めたいとするならば相手の「好き」なものやことにたいして共感したいと思い、同じ追体験をするのである。その追体験から得たときに同じ「好き」を共感できたら好きが伝播する。

 

メッリットとデメリットを比較してメリットを取る。合理的な判断が賢い選択とされる。その結果として利益が出てその余剰が別の選択肢を広げるという好循環を生み出すことになる。その反面に合理的な判断を繰り返していることによって好きか嫌いかという気持ちをないがしろにしていないだろうか。

 

自分のなかにある燃えるような熱い気持ちや喜びをなくしてしまったとしたら、それは合理的に考えることが病気のような状態なのかもしれない。例えば独身でいるほうが経済的に豊かだとか。車は持たないほうがいいだとか。持ち家と賃貸がどちらがいいかとか。会食や接待ゴルフ・接待麻雀などの取引先を立てることに気を使いすぎる。ミニマリスト。必要最低限のものしか持たない。自分が何が好きなのかもわからない状態に落ちて悲観的になって他人の不幸や新聞の社会面の記事にあるような悲劇的なニュースや不安にさせるニュースにしか関心がなくなる心の冷めた人になってしまう。他人の「好き」に振り回されて自分自身が初めて感じる「好き」という気持ちに気づかないでいる。好きと思い込んでいる。それはそれでそういう時期だと受け入れることも大事である。ただ本当の自分のなかにある「好き」という感情はどこから来ているのかというのをふと考えてみるのもいい発見になるかもしれない。

 

好きなことだけして生きていくというのは難しいけれども、嫌いなことを我慢してやり続けて生きていくことも同じく難しい。同じくらい難しいなら好きなことをしたほうがいい。好きという気持ちが意志のちからをもっている。

 

そんなときもあるよね。またね。