アラランランド

中年の危機からウェルビーイングのかたちを探していく

遮断という海外

日常からの遮断という目的で海外へ行くということができずらくなった。スマートフォンが便利過ぎるからだ。GooglemapGoogle翻訳、Googleカメラをちょこちょこっと使えば、タクシーに乗るのも食事をするのもホテルで過ごすのも、ひとりでふらっと出かけるのも何も不安なことがない。LINEも常に使える。ノマドワーカー的な生き方も広がった。Googleが機能していない国もまだあるだろうけど、USドルが有効な国は問題ないだろう。逆にスマホがないと困ってしまう。前は無かったんだからと開き直っても、便利さを知ってしまったからもう後戻りできない。電波が繋がらなかったりバッテリー切れだけで喪失感すらある。YouTubeだってオンデマンド番組だって暇なときにネットで見ることができて日本にいる時と同じ情報にも簡単にアクセスできる。自分の足で調べて行くというローカルな体験も、ネット情報である程度知る事ができてしまう。探検して発見する体験から調べて確認する体験に変わってしまった。

 

スマホができる前、知らない場所へ日本から出るとガイドブックの地図を頼りに、頭の中は英語の単語が飛び交っていた。旅行中、電話もかかってこないし、かけもしなかった。どこかに行くにもタクシーか電車かバスかどうするか、初めてはドキドキした。何か事件や強盗にあったら終わりだなとか不安がたくさんあった。その反面、バスに乗る、ローカル店に入るとか小さなチャレンジが楽しかった。何より日本という国と遮断しているのが異国の雰囲気と時間感覚を味わう最高の環境だった。テレビも本も全然違う。音や空気や匂い、そのなかで生きていた。暇な時間の過ごし方も違っていた。外国で出逢う日本人の親密感も高かった。日本に帰ったら自然と同じ日常に戻っていくのだが、以前とは違った感覚になっていた。

 

このギャップがゆるくなってしまった。

 

スマホが使えない国に行けば、ドキドキをまだ感じる事ができるかもしれないけど危険なところには行きたくないよね。

得られる情報が増えたためあえて準備しないで繰り出すという危険なことはしなくなっているし、待ち時間で新しい情報を入手しなが移動することもできるようになったし。

 

合理的な行動をする人間の時間の矢。

 

 

そんなこともあるよね。

またね。